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執筆者の写真cocon

『郡虎彦全集』初版と復刻版を並べた話

更新日:2023年1月2日


謡曲の次点になるが、私は白樺派の劇作家・郡虎彦(別名義:萱野二十一。以下、郡)についても細々と研究している。彼は日本における新劇活動の黎明期に小山内薫らとともに活動し、謡曲をアダプテーションした『鉄輪』『道成寺』などの戯曲を製作した。彼に興味を持ったきっかけはそのあたりだが、今となっては前述の簡潔な説明では彼の業績を述べるに不足と思うほど、その作品群に惹かれている。


全集を並べた経緯

郡虎彦は34才の若さでスイスで客死した。そのため、遺された作品はかなり少ない。彼の没後十余年を経てから有志の手で刊行された『郡虎彦全集』は、邦文篇・英文篇・別冊併せて三冊のこじんまりとしたものとなっている。


私が彼の全集を手に入れたのはたしか大学2年の時だったが、読み進めるうちに本の奥付がふたつあると気付いた。実は、手持ちのものは初版(創元社版)ではなく、後年作られた復刻版(飯塚書房版)だったのである。となると、別冊末尾の「編輯餘記」に書かれている「装幀は三浦直介の擔任たり」という文言の指す装幀が、果たして手元にある通りのものか、わからないではないか…!当時はそれを残念に思ったものの、読み進めるうえで問題があるわけではなかったし、いつか初版も眺めてみたいと思いつつ、遂に機会のないまま10年ほど経過した。


しかし2022年の夏ごろ、ぼーっとヤフオクを眺めていたらたまたま初版の方が安価に出品されていることに気付いた。函の状態は良くないが、写真を見た限り、本の方は問題なさそうである。これ幸いと購入し、その到着を待った。


初版と復刻版の比較

以下、簡単に初版と復刻版の差異を述べてみる。


<初版(創元社版)>※三浦直介による装幀。

・三冊函入り。貼函。紺色の布に近い丈夫な紙貼りの上に、背文字を印刷した化粧紙を貼る。

・表紙赤色(朱色?)、天金装。どう見ても洋書を意識している。

・本の背表紙、英文篇は英語表記。

・写真ページは手前に半紙の差し込みが附属。半紙に説明が印刷されているので、写真が透けて良い。


<復刻版(飯塚書房版)>

・三冊函入り。サック式で、背文字は直接印刷。

・紺色の表紙。

・背文字は金。楷書体でかなり大きく書かれている。

・写真ページの前に半紙の差し込みはない。説明は写真と同ページに印刷。

・基本的に初版の紙焼きを利用しており、新たに組みなおした部分はほぼない(奥付のみ)。


文字でいろいろと書いたが、写真を見るとその差は明確である。


気になる復刻経緯

復刻版は、奥付に版元の情報があるだけで、復刻経緯に関する記述はない。復刻される時期の前後には雑誌などへ多少の広告を出していただろうから、そのあたりをつぶさに洗えば確認できるだろう。ただ、それをする気力と時間が足りずに放置してしまっている。


もともと初版は昭和11年に、限定300部で発行された。それが昭和56年に復刻されたのだが、そのタイミングで郡が話題になるようなことがあったかと考えると、勉強不足でさしたるものが思い浮かばない。もしかすると昭和30年代、三島由紀夫が『近代能楽集』を著す前後に度々郡を称揚し、それ以降郡の評価が高まったことも遠因となっているのだろうか。


経緯が分かればそのうち書き足すが、一点気になるのは復刻版の奥付にある「編集者」が創元社版と変わらず「山内英夫」となっていることだ。これは里見弴の本名である。この「編集者」が、もともとの版を流用したためにそのまま記載したものなのか、それとも復刻版の刊行にあたり、一応は里見に確認をしたということなのか。里見は昭和58年まで存命であったため、確認できないことはないだろう。刊行の経緯が知れればそのあたりもわかってくるような気がするが、今は手元の情報を記録するにとどめたい。


「編輯餘話」に見る初版の苦労

先に触れた「編輯餘話」は編集責任者として、志賀直哉、武者小路実篤、里見弴が連名で記されたものである。これを読むと、全集刊行に至るまでの発起人たちの苦労が伺い知れる。

全集刊行の企画は郡の死後すぐに持ち上がったものの、資金面の難しさから早々に頓挫してしまった。その後10年近くそのままになっていたものを、ある年「志賀直哉、柳宗悦、三浦直介、偶々亡友の生前を語り合ひしに端を發して」、再び刊行話が持ち上がったという。しかしながら、昭和11年当時においても「郡虎彦なる名の、現時一般讀書子の耳に、或は多く熟せざらんことを惧れ、二三交渉せし書肆に難色」を示されたという。最終的には「関西在住の志賀、谷崎潤一郎の挽推に依つて、大阪なる創元社の主人、矢部良策の義侠的快諾」を得て、どうにか出版にこぎつけることができたらしい。


出版に至るまでの十余年の間に、当然ながら発起人や寄稿者の中には鬼籍に入った人もあった。日本に於いて郡の戯曲を唯一舞台にかけた小山内薫も、そのうちの一人である。文末近くには、完成を見ずに逝った人々の名が挙げられており、彼らと「欣びを共に得ざるは、遺憾の唯一なるものなり。」と記されている。部数を限定し、郡の趣味を体現させたような拘りの強い装幀を実現した初版本が、どのようなペースで はけ、どのような人々の手に渡って行ったのかについては知るすべもない。


誰かがこの本を読む日のために

当時よりいくらかましかもしれないが、現在も郡はかなりマイナーな作家である。しかしながら、作家の作品をあまねく網羅した全集というものの存在は大きい。初版時に志賀たちが苦労して収集したおかげで、国外で掲載された郡の英文にも容易に触れられる。


昭和56年の復刻版も、初版があってこそのものだ。仮に、郡が再評価されたタイミングで全集を発行しようとしても、郡と実際に交流のあった初版の発起人たちのように出来はしなかっただろう。そう考えると、頓挫しかかったものを刊行に持って行った志賀たちの努力は、きちんと結実していると感じる。

原稿ではなく、本としてまとめられているというのは改めて素晴らしいことである。

全集を開けば郡の生没年もすぐわかるし、派閥の枠を超えた豪華な寄稿者たちの文章からは郡の為人もわかる。英文篇の写真からは、1910年代のイギリスの俳優たちが、和装して鎌倉時代を舞台とする戯曲を演じた姿だって知ることができる。


今、偶々私は郡に興味を持ち、全集を手に取った。しかし、当然いつか死ぬ。でも本は、そこにある限り生き続ける。仮に開かれない時期が百年続いても、百一年目に誰かがそれを開くということが起こりうる。志賀たちも案外、”世界的作家になりたい”と夢を語りながら早くに異国で散った郡の業績を、どうにかして永く残るようにしてあげたいと強く願い、無理をおしてこの全集を世に出したのではないだろうか。


長くなってしまったが、初版本を手に入れる際に上記のようなことを考え、母校に大学図書館に収蔵してもらうことを決めた。恩師の取り計らいにより、既に請求番号もふられてOPACに掲載されている。(初版の全集は全国で22館に所蔵されており、北陸では母校だけとなっている。)ここに改めて感謝申し上げる。


別にいますぐ誰かが読まなくてもいいのだ。そして、読むときの興味関心が郡自身ではなく、志賀や実篤や里見でもいい。あるいは三浦による装幀でも、海外における日本人作家の作品の上演状況でもいいのだ。いつか何かを知りたい誰かがこの本を読む日のために、百年でも二百年でも、図書館を揺籃として、この全集が生き続けてくれればいいなと思う。












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