祇王や仏御前、静御前そして平清経など、能楽のシテになった『平家物語』の人物たちと縁深い”今様”。だが、『平家物語』の中で今様がどのようなときに、どのような人たちの口をついて登場しているかと問われると、すぐさま答えることができそうにない。そんな気づきから、『平家物語』中の「今様」および「朗詠」の表現が登場する箇所を調べてみた。結果、〈清経〉の結末について少し考えることがあったので走り書きながら以下にまとめてみる。
「今様」および「朗詠」の登場箇所
まず『平家物語』における今様の登場箇所を洗ってみると、以下の通りであった。
(以下、章段名や単語は一方系語り本の一種「下村本」を底本とする『日本古典全集』に基づく)
■巻第一 十 祇王
平家物語で一番今様が活躍すると言っても過言ではない章。清盛と、彼に寵愛される遊女・祇王が近頃話題の遊女・仏御前に面会する場面。仏御前が二人の前で謡ったのは「君を初めて見る折は千代も経ぬべし姫小松 御前の池なる亀岡に鶴こそ群れ居て遊ぶめれ」という今様であた。この一件で仏御前が清盛の寵愛を得、祇王は没落する。しかし、今度は立場を変えて仏御前を慰めるために祇王が呼びつけられるという一件が起きる。その場で祇王は「仏も昔は凡夫なり我等もつひには仏なり いづれも仏性具せる身を隔つるのみこそ悲しけれ」と謡い、周囲をしみじみと感動させるのである。
■巻第二 十五 卒都婆流
鬼界が島に流された、丹波少将成経、平判官康頼、俊寛僧都のうち、信心深い成経と康頼は都に戻りたい想いから島の中を熊野三所権現に見立てて信仰して暮らす。二人が夜を通して三所権現に祈り、今様を謡ったりしていると、まどろんだ明け方に女房らが船でやってきて今様を謡うという霊夢を被る。
女房らが謡ったのは、「よろづの仏の願よりも千手の誓ひぞ頼もしき 枯れたる草木も忽ちに花咲き実生るとこそ聞け」。この歌に導かれるように、康頼の作った卒塔婆は遠く都に届き、帰郷が叶うことがほのめかされる。
■巻第五 三 月見
福原への遷都後、荒れた旧都に住まう姉宮を訪ねた左大将・徳大寺実定卿が過去を懐かしんで歌う。
「旧き都を来て見れば浅茅が原とぞ荒れにける 月の光は隈なくて秋風のみぞ身には沁む」これを3遍謡われ、聞いていた姉宮や侍従の涙を誘った。
■巻第五 十 文覚被流
頼朝謀反のきっかけとなった文覚が、後白河院の御前に現れる場面。直前まで後白河院は催馬楽や今様を楽しんでいる。後白河院の様子を語る文脈の中で触れられるものの、実際の今様の文句は出てこない。朗詠という表現も出てくる。
■巻第六 十二 喘涸声
後白河院の御前に按察使大納言資方が参上する場面。田舎暮らしで風流を忘れた心地だが今様をまず聞きたいと告げた院に、資方は「信濃にあんなる木曾路川」という歌詞のところを実際の経験を踏まえ「信濃にありし木曾路川」と歌ってみせ、名を挙げたという。
■巻第十 七 千手
頼朝に捕縛された重衡を慰める千手の前の今様。「極楽願はん人は皆弥陀の名号唱ふべし」などと繰り返し謡う。他にも漢詩などいろいろの朗詠を含む歌の心のやりとりが描かれている。
「今様」ではなく「朗詠」とのみ記載があったのは、下記の2か所だった。
■巻第三 十六 大臣流罪
太政大臣・藤原師長が流された際、熱田明神に参拝し神明法楽の為に琵琶弾き朗詠を行う場面。「願はくは今生世俗文字の業狂言綺語の誤りを以て」と朗詠して秘曲を弾くと「神明感応に堪へずして宝殿大きに震動」する奇瑞が起きたという。
■巻第八 四 太宰府落
左中将清経の入水の場面。ある月の夜、舷に立ち出でて「横笛音取り朗詠して遊ばれける」が、この先生きながらえる甲斐もないと思い、入水してしまう。この際の朗詠の内容については触れられていない。
『平家物語』における今様の機能
「祇王」「月見」「千手」では、今様が人の心を動かす様が描かれている。また「卒塔婆流」や「大臣流罪」では今様を謡うことが登場人物らを見舞う奇跡と直結している。「文覚被斬」や「喘涸声」では、後白河院の今様への傾倒を印象付けるものと言えよう。
今様は、平たく言えば当時最先端の流行歌である。貴賤問わず口ずさむ者の多い流行りものでありながら、それが物語の中では様々な奇跡にも通じるというのは、今の私たちの感覚では理解しがたい。盛者必衰の理を冒頭から謳う『平家物語』の中だからこそ、400年ほどへだたりはあるが、古今集の仮名序に書かれたような、「力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女の仲をも和らげ、猛き武士の心をも慰むる」”歌”の機能(効能?)がとどめられているようにも思う。
今様に耽溺した後白河院が編んだ『梁塵秘抄』をみても、現存する僅かな巻(もと歌詞集と口伝集各十巻ずつから成るが、現存は歌詞集巻一の部分と巻二、口伝集巻十のみ)の中でさえ、仏教の教えや神仏習合の色濃い法文歌、神歌が多い。寧ろ、早い方の巻にこうした内容が登場していることからも、今様の中で神仏そのもの、あるいは仏教の教えを謡うことがどのように位置づけられていたかが窺い知れよう。もちろん『梁塵秘抄』の中には神歌以外に家族や男女の愛情豊かな歌、動植物への優しい目線が謡いこまれた歌など多様な歌詞が存在する。わずか200年ほどの間隆盛し、その後失われた旋律であるとはいえ、眺めていると何とはなしに口ずさんでみたくなるものばかりで大変魅力的である。
さて、話が脇にそれてしまったが、改めて『平家物語』における今様の機能について考えてみたい。
まず、大前提として『平家物語』は語り物として生まれた。そのため、今様の歌詞が明確な箇所は、おそらく琵琶法師らによって力を込めて謡われたことだろう。「卒塔婆流」や「大臣流罪」における奇跡の場面では驚きを、そして「祇王」「月見」「千手」ではしみじみとした感動を呼び起こしたに違いない。それらの場面では今様が『平家物語』そのものに欠かせない機能を果たしていると言える。
それ以外の箇所で言えば、「文覚被斬」「喘涸声」で今様が登場するのは、後白河院とその周辺の日常を強調するためでしかないので、そこに謡われた内容が必要ないのも道理と思われる。残る「大宰府落」は、清経入水の場面である。
謡曲〈清経〉の成仏と今様
『平家物語』の清経は「何事も深う思ひ入り給へる人」と評される。その前置きの後、横笛を吹き、そして今様を詠じて入水する姿が描写される。ここにおいて今様は、風流な若君としてしかその生を全うしきれなかった清経という人物の為人を印象づけるためのものとして盛り込まれた要素と考えられる。そして、この横笛演奏と今様朗詠から入水への流れはそのまま謡曲〈清経〉に繰り込まれ、八坂流の二本に見られる妻からの遺髪返しの話と共に、『平家物語』の枠から飛翔した新しい清経像を作り上げてゆく。
謡曲〈清経〉の結末部において、清経は入水前に唱えた念仏をきっかけとして修羅の苦患を脱する。もちろん『平家物語』本文でも念仏したことは記載されているが、そこにある清経の独白は「都をば源氏の為に攻め落され、鎮西をば惟義が為に追い出され、網にかゝれる魚の如し。いづちへ遁るべきかは。存(ながら)へはつべき身にもあらず」という悲壮感漂うものである。
しかし世阿弥の描いた清経は、迫る源氏や宇佐八幡の託宣に思いを馳せ、心もとない行く末を思うそぶりを見せるものの、そこから入水までの述懐は、ある種の清々しさを以て胸に迫ってくる。
清経は「腰より横笛抜き出し、音も澄みやかに吹き鳴らし、今様を歌ひ朗詠し、来し方行く末を鑑み」た後、「終にはいつか徒波の、帰らぬはいにしへ、留まらぬは心づくしよ、此世とても旅ぞかし、あら思ひ残さずやと、余所目にはひたふる、狂人と人や見るらん、よし人は何共、海松布(みるめ)を仮の夜の空、西に傾く月を見れば、いざやわれも連れむと、南無阿弥陀仏弥陀如来、迎へさせ給へ」と述べて、入水するのである。
『平家物語』では悲劇でしかなかった清経の入水は、世阿弥の手によって、研ぎ澄まされた信仰心を縁(よすが)にした美しいものへと高められたと言えよう。
謡曲中の清経は、西に傾く月を見て西方極楽浄土を思い、「(月よ)月私も西方浄土へ連れてまいれ。阿弥陀如来よ、お迎えください」という。この言葉は、それこそ、今様に通じた清経らしい発想であるようにも思われる。というのも、前述の通り今様は神仏への祈りや仏教教義を含んだものであることも非常に多いからである。実際、『梁塵秘抄』第二、法文歌のひとつにも西方浄土を歌ったものがある。「われらは何して老いぬらん 思へばいとこそあはれなれ 今は西方極楽の 弥陀の誓ひを念ずへし」(二三五)という具合である。
書物の伝来状況から、『梁塵秘抄』そのものが世阿弥の眼に触れることはなかったと思われる。しかし、作能の材料とするために、『平家物語』やその周辺の説話・軍記物を渉猟したであろう彼だからこそ、物語本文における今様朗詠の意味と効果はなんとなく認識していたことだろう。その点を踏まえると、横笛や今様朗詠といった行動が、清経の心情変化のターニングポイントとして好く機能している理由も何となくそのあたりに起因するように思えて来る。
ワキ僧や妻による弔いのないままに修羅道から一転して仏果を得る奇跡のシテとして描かれた清経。世阿弥によるその特殊な人物造型を、今様朗詠という行為が下支えした可能性も、僅かながらあるのではないだろうか。
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