以前下記のツイートをしてから、いつごろから外国人による謡曲翻訳が行われていたのか、ずっと気になっていたので余暇に少し調べてみた。ツリーを見ていただければわかるが、アーサー=ウェイリーは謡曲の翻訳においてはかなり後発である認識はあった。ただし、その他については前後関係や内容はほとんど把握できていなかったので、今回はそのあたりを洗ってみた。
外国人による謡曲翻訳
謡曲をまるごと1曲扱って翻訳した事例は、おそらくB.H.チェンバレンの『The Classical Poetry of the Japanese.』(1880)の中に掲載された《羽衣》 《殺生石》《邯鄲》 《仲光》 、および狂言《骨皮》 《座禅(花子) 》が初めだと思われる。この著作については、学習院女子大学紀要 (22), 35-47, 2020 式町眞紀子「古い人を脱ぎ捨て、新しい人を身に着ける : チェンバレンと能『殺生石』に詳しい。チェンバレンの謡曲以外を含めた事績については、能の海外交流:明治期に能を英訳、紹介したチェンバレン などのサイトにもまとめられているほど有名なものである。
その後、完全な謡曲の翻訳事例として次に出てくるのは、M.C.ストープスの『Plays of Old Japan (The NO)』(1912)を待たなければならない。
※1911年、ジョージ=サンソムが『Translations from Lyrical Drama: ‘Nō.’』を著している。タイトルからすれば、1曲の完全な訳が載っていてもおかしくはなさそうだが、これについてはストープスの著作の中で言及があるものの、本の内容を確認できなかったため、ひとまずは措く。
M.C.ストープスの『Plays of Old Japan (The NO)』
M.C.ストープスはスコットランド出身の植物学者であり、1907年に訪日して化石の研究を行った。『Plays of Old Japan (The NO)』は、日本科学の権威である櫻井錠二博士との共著の形をとっている。彼女は日本での暮らしの中で能に触れ、遂にこの本を刊行することになったらしい。共著者の櫻井博士は石川県金沢市の出身であり、能には非常に明るかったとされる。また、本書の序文は当時駐英大使だった加藤高明(のちの内閣総理大臣)が書いていることから、日本側も、本書が西洋における日本理解の一助となることについてそれなりに期待を寄せていたと思われる。本書の内容は、加藤大使の序文についで読者に向けた執筆意図および能楽の概要解説、そして《求塚》《景清》《隅田川》といった3つの謡曲の訳、最後に《田村》の梗概が掲載されるという形をとっている。
ちなみに、これに先んじて出版されたストープスの訪日滞在記『A JOURNAL FROM JAPAN』(1910)11月3日の記事には、日本人の友人であるH博士に連れられて初めて能を観たときの記録が残されている。しかし、屋外の能楽堂で6演目を鑑賞したことについて記載があるのみで、当時観た演目の詳細はわからなかった。しかしここでの出会いが、ストープスに能への興味を抱かせ、翻訳にまで挑ませたというのは大変に興味深い。
チェンバレンからストープスまでの20年
チェンバレンの著書からストープス著書の刊行の間にはおおよそ20年ほどの開きがあるが、その間誰も謡曲について触れることがなかったわけではない。1899年から1906年にかけて、チェンバレンと並び有名なアストンや、オスマン=エドワーズ、フランシス=ブリンクリー、フレデリック=ヴィクター=ディキンズらが、いずれも訪日経験に基づいて著した日本に関する出版物の中で各自謡曲について触れている。そのことについては、ストープスも著書の中で言及している。ただしこれらは、いずれも完全な翻訳を試みているわけではなく、日本の文化を紹介する意図で扱っていることがほとんどである。
チェンバレンからストープスまでの各著作者の共通項としては、いずれも日本に実際に訪問し、舞台などを見聞きした外国人たちであったことが挙げられるだろう。実際に見て触れて、西洋へ紹介するに値するものとして謡曲を認識したということが面白い。
なぜなら、これ以降はフェノロサの遺稿を手にしたエズラ=パウンドが、手を加えて雑誌や刊行物にいくつもの謡曲翻訳を発表したり、アーサー=ウェイリーがさらに膨大な数の曲を翻訳したりする所謂謡曲の翻訳や紹介が充実する時代になってゆくのだが、それは来日せずとも謡曲を翻訳対象の作品として扱い、発表する風潮が形成されていったということに他ならない。無論、パウンドやイエイツの活躍には当時渡欧していたたくさんの若き日本人たちの活躍ー野口米次郎、伊藤道郎、郡虎彦ら文化人の活躍ーがあったことはすでに知られている通りである。
ストープスの視線
あらためて、ストープスの著作『Plays of Old Japan (The NO)』に目を向けてみよう。
ストープス以前にチェンバレンやアストンが能を紹介したことは広く知られているが、ストープスと櫻井博士の事績についてはこれまであまり注目されてはいない。しかし二人の手による読者に向けた章は、先行したチェンバレンやアストン、そのほか能についての意見を著作で表明した前述の各人についても触れられており、大変興味深い。以下にチェンバレンの発言に触れながら能の本質についての考えが垣間見える部分を抜き出してみる。(引用はgutenberg.orgに掲載の本文より)
…Chamberlain says, “The one original product of the Japanese mind is the native poetry”—their painting, their porcelain, their ceremonials, are modifications of Chinese classics, but their poetry is their very own. Among the greatest and most characteristic treasures of the native literature, the Japanese rank their ancient “lyric dramas,” the Nō. As Synge and the Irish poets speak for the Irish people the things that matter most to them and that yet go all unexpressed in their outward life, in the same sense, only to a greater extent, do the Nō dramas represent the old spirit of Japan.…
(拙訳:チェンバレンは「日本人の精神をあらわす唯一独自なものは土着の詩である」と述べているー(日本の)絵画や磁器、儀礼は中国古来のものを改変したものだが、彼らの詩は彼ら自身のものだ。土着の文学の中で最も偉大かつ特徴的な宝物であると日本人が位置付けているのは彼ら古来の”詩劇”、すなわち能なのだ。シングとアイルランドの詩人たちがアイルランドの人々にとって最も大切でありながら、表向きの生活の中では全く発露されていないものについて表現しているように、同じ意味で、より大きな範囲で、能楽は日本古来の精神を表現しているのである。)
工芸などの文化は中国から伝播したものを改変したと理解しながらも、逆に詩劇を独自のものとして認め、それを扱おうという本書の執筆意図は、日本に滞在し、日本を理解しようと試みた結果であるのだろう。
同時代における日本人側の動向としては、「1904年ごろから野口米次郎が狂言作品の翻訳をアメリカの新聞や雑誌で発表し始める」ようになっていたという。これについては、堀まどか『野口米次郎と神秘なる日本』(大阪市立大学人文選書8、2020)に詳しい。(かんざき様、ご恵贈ありがとうございました!)
いずれにせよ、江戸から明治の過渡期には屋台骨から揺らいでいた謡曲も、国内外での日本という国の理解の端緒として、割合貢献していたようだ。掘っていけばもっといろいろ面白いのだろうと思う。しばらくは、ストープスの著作を訪日滞在記含めてもう少し読み込んでみようと思う。
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