2021年5月2日 金沢能楽会定例能の観能記録です。
食わず嫌いの三番目物
恥ずかしながら、三番目物(鬘物)は、眠くなるので好きではない。
詞章や舞の見せ場もそれなりに面白く観ることはできるけれど、やはり優美な歌舞は現代人には酷だなあと思う。
今回《船橋》目当てで行った定例能で対になっていた《東北》は、シテが和泉式部の三番目物である。昔は《軒端梅》と言ったらしい。一体どのあたりで変わったのだろうか、古名の方が曲の内容に即しているように感じられ、個人的には好ましい。まずはあらすじを書いてみる。
東国から都を見に出てきた僧(ワキ、ワキツレ)たちは、盛りを迎えた梅に目を留め、所の者(アイ)に謂れを訪ねる。梅の名を「和泉式部」と教えられた僧が眺めていると、女(前シテ)が現れ、梅の名前はそんなのではない、と説いて上東門院(藤原彰子)の時代に和泉式部が手づから植えて「軒端の梅」と呼び眺めた梅であり、自分こそ梅の主であると言いおいて消えてゆく。
所の者に再度、和泉式部と梅の仔細を聞いた僧は、夜もすがら供養の法華経を読誦する。
そこへ、和泉式部の霊(後シテ)が現れ、唱えられる法華経に、かつて関白・藤原道長が法華経を読みながら門前を通った時の声を聴いて「門の外 法の車の音聞けば 我も火宅を出にけるかな」という和歌を詠んだことを思い出したと述べる。その和歌が縁となり、歌舞の菩薩となっていた式部は僧の前で和歌の徳と東北院の景色を讃え舞いを見せ、最後には生前の臥所であった方丈の室に入って消えていく。
観終わって感じたのは、食わず嫌いしている曲にもやはり発見というものはあるということ。あんまり苦手意識を持っていると損だなと感じた反省として以下にいくつか気づいたことを上げていく。
※以下、詞章の引用は新日本古典文学大系「謡曲百番」による。
王城の鬼門に居留する歌舞の菩薩
「閻浮(えんぶ)」や「火宅」という言葉を聞くと、現世への恋しさや妄執のために出てくる他の曲の幽霊たちを思い出してしまうのは私だけではないと思う。しかし本曲のシテは自身が述べる通り、すでに和歌の縁で「歌舞の菩薩と成」っている身である。そのうえで、なぜか「猶此寺にすむ月の」(すむ、は住と澄の掛詞)と、東北院に居留していることを強調している。別に僧が軒端の梅に心を寄せてくれた縁だけでも、一般的な謡曲としての筋書きには問題なさそうであるのに、どうして成仏後も住んでいると強調する必要があったのか。
これには、後に続く東北院という寺院そのものへの賛美が関連していると思われる。クリ・サシで和歌を礼賛した後、クセでは一転「所は九重の、東北の霊地にて、王城の鬼門を守りつつ、悪魔を払う雲水の…(後略)」と、御所の鬼門を鎮護する寺社としての機能を余すところなく搭載している東北院についての礼賛が続く。それは院の景色にまで言及し、「澗底の松の風、一声の秋を催して、上求菩提の機を見せ、池水に映る月影は、下化衆生の僧を得たり、東北院陽の、時節も実と知られたり」と結ばれる。
推論の域をでるものではないが、和泉式部が菩薩と化したうえで一所に留まるには、梅に託す懐旧の思いだけを縁に成立させるには筋として少々不十分であったのではないか。そこに王城の鬼門鎮護としての東北院を強調することで、菩薩としてのシテの居留を正当化し、成立当時の観客に好ましい物語とすることを目指したのではないだろうか。
和泉式部の臥所への言及
本曲の最後は、「方丈の燈火を、火宅とや猶人は見む、爰こそ花の台に、和泉式部が臥所よとて、方丈の室に入ると、見えし夢は覚めにけり、見し夢は覚めて失せにけり」と結ばれる。
火宅(現世)では方丈と見えるがこの場所こそ花の台であり、和泉式部の臥所だと述べて消えてゆく、すなわちこの場面でも、シテの東北院居留が強調されている。
しかし、やや穿った見方をすれば、「色に染み、香に愛でし昔を」思い出して恋し涙を恥じた彼女が、帰っていく場所を「臥所」とするあたりに、彼女の人として人生ー道長に「浮かれ女」、紫式部に「けしからぬかたこそあれ」と書かせしめた、その恋多き人生ーがある程度投影されているような気がしてしまう。そうでなければわざわざ、臥所へ帰ると強調するだろうか?夢が覚める結末に、不思議なほど現実的な帰還が示されているところに、成仏しているはずの歌舞の菩薩が居留する場所としての臥所の意味を深読みせざるを得ない。しかしながら、方丈(住職が住んでいる部屋)が和泉式部の住んでいたときのまま再利用されていることについてはワキとシテの前場の問答の中に出てきているので、本当に純粋な居留の場所として示しただけかもしれないが。
参考に?和泉式部と「臥所」のイメージがつながる和歌を2首挙げておこう。
黒髪の乱れもしらずうち臥せば まづ掻きやりし人ぞ恋しき(後拾遺和歌集 755)
せこが来て臥ししかたはら寒き夜は わが手枕を我ぞして寝ぬる(和泉式部正集)
それにしても、菩薩であってもどこかに留まるための住処は必要なものなのだろうか。ちなみに、同様に歌舞の菩薩となった和泉式部をシテとする《誓願寺》では、石塔(墓)を住処と述べている場面がある。いろいろ書いてきたが、三番目物だと言って敬遠していては成長できないということを歌舞の菩薩の徳でご教示いただいた気分である。
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