「能面のような顔」が表すもの
「能面のような顔」という慣用表現がある。これは、人物の表情がないことを、「小面(こおもて)」に代表される女性の能面(以下、女面)に例えた表現である。能を研究したり、舞台を楽しむ人からすれば決してそんなことはないのだが、一般的にこの慣用表現が使われるとき、能面は無表情、そしてそこから感じる不快や不気味の比喩として扱われている。
生身の人間が無表情であることは、たしかに対峙している相手に違和感を感じさせる。私たちの非言語コミュニケーションの主を視覚が担っているのだから、それは至極当然のことだ。
それならば、例えば今にも笑い出しそうなほど表情豊かな能面があったなら―もし、そのようなものを見ることができたなら、不快や不気味を感じることはないのだろうか?
あくまで主感になるが、私はこれに”否”と言いたい。実際にそのような女面たちと対峙した際、むしろ、その”どこにでもいそうな人間らしさ”を不気味に感じた。これは、思わぬ発見であった。
人間らしさを持つ女面の違和感
実際に人間らしさを湛えた女面に出会ったのは、一昨年のミホミュージアムでの企画展「猿楽と面」でのことだ。そこに出展されていた、とある地域の古い能面群に、これまでに見たことのない相貌の面があったのだ。そのいくつかの面は、例えるなら、公園でふとすれ違いそうな、通勤電車で隣に座っていそうな、不思議な親近感を持って私を見上げていた。ほかの能面には感じない親しみと、それを超える違和感に、かなりの間その面たちの前で立ち止まってしまった。
現代の能面は過去作の「写し」を基本としているため、こうした、まるでどこかにいそうな造型の女面がほとんど残っていないことは、それらが淘汰された、または局所的・一時的に作られものであったということを示す。(あるいは、面打を本職としないものの作品であった可能性すらあるかもしれない。)
こうした面は、手本にされることがなかったために、近年の舞台で似た相貌の面を見ることはない。だからこそ、これらの面を見るまで気づかなかった。普段見ている能面が、「人」を精巧に似ているようでいて、実はそうではないという可能性に。
「不気味の谷現象(uncanny valley)」から能面を考える
人間らしさを湛えた能面が淘汰された理由は、ロボットなどの見た目が人に限りなく近づいて行く時に突然起こる「不気味の谷現象(uncanny valley)」の影響だろう。この現象は、「外見的写実に主眼を置いて描写された人間の像(立体像、平面像、電影の像などで、動作も対象とする)を、実際の人間(ヒト)が目にするときに、写実の精度が高まっていく先のかなり高度なある一点において、好感とは逆の違和感・恐怖感・嫌悪感・薄気味悪さ (uncanny) といった負の要素が観察者の感情に強く唐突に現れる(Wikipediaより引用)」というものだ。その閾値をグラフで表すと、まるで谷のように唐突な降下がみられ、それを「不気味の谷」と呼ぶ。これは、近年のロボット工学などで課題とされている内容でもある。
私は能面を打つ上で、かつて面打師たちの身にもこの現象が起きたのではないかと思う。さまざまな面を打つ中で、どんな美人を模して面にしても目指すものにならないことに気づいたのではないか。だからこそ、能面たちは、「人」を模しているように見えて、実際はそうではない。実在の人間以上の完璧さを以て、”不気味の谷”を越えて見せたのだ。そうして生まれた美しさを様式美の中で継承し、その中で腕を競い、新しい面を生み出していったのだ。
(もちろん、普段みかける女面も、見慣れない人にとっては十分「不気味の谷」現象を引き起こす存在だからこそ、「能面のような顔」という比喩が生まれたのだとは思う。しかし、そこに私の出会った人間味の強い女面を並べてみれば、吸い込まれそうなほど美しい小面の不気味さは確実に和らぐはずだ)
幻の偶像としての能面、そしてロボットの相貌
あくまで私の主観だが、能面というのは、おそらく意図的に、「人」として存在するにはありえない造形をしている。巧妙に人に似せた幻、それの持つ美しさ。だからこそ舞台上で、神にも、魔性にもなれる。怒りも物狂いも研ぎ澄まされて物凄く、だからこそ数百年維持されてきたのだと改めて思う。
もしかしたら、「不気味の谷」現象に悩まされる人型ロボットたちの相貌も、人にとにかく似せることにこだわるのではなく、人を超えて行けば良いのかもしれない。人型でありながら決して人ではない、幻の偶像を目指してデザインした時、どんなロボットが生まれ得るだろうか?
それは案外、美しい能面のような顔になるのかもしれないと、私はこっそり思っている。
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