世阿弥の子・元雅の作った《隅田川》は、人攫いに買われた息子を探して物狂いとなりながら旅する女(シテ)が、隅田川の渡しでついに息子の塚(墓)にめぐり合うという悲劇的な曲である。地元の人々による葬いの念仏が響く中、母たる女性は束の間、いとし子の亡霊の姿を認めるが、それは儚い幻であった…という悲しくも美しい作品だ。
子方を出すか、出さないか
この《隅田川》、実際の舞台では母親の見る幻として亡霊姿の子方が出てくるのだが、子方を出す・出さないで世阿弥と元雅の間では意見が分かれていた。そのことは、『猿楽談義』に収められている「よろづのものまねは心根」という節に、下記のように記録されている。
以下、引用は岩波文庫「猿楽談義」による。
「隅田川の能に、「内にて子もなくて殊更面白かるべし。此の能はあらはれたる子にてはなし。亡者なり。ことさらその本意を便りにしてすべし」と世子申されけるに、元雅は、えすまじき由を申されける。かようのことは、して見てよきにつくべし。せずば善悪定めがたし」(後略)
能の結末で、舞台上に亡霊を出すか、出さないかという問題について、世阿弥は「子は亡霊で実際に会ったわけではないのだから、出すべきでない」とする。これは現在能なら亡者は出さない方が良いという配慮であろう。
しかし、作者元雅は、子方を出さないという演出こそ「えすまじき」とまで言う。気乗りしないとかではなく、「すべきでない」とまでの強い否定だ。
『猿楽談義』は、元雅の弟・元能が記したものなので、実際の元雅の心のうちまでを伺い知ることはできないが、ここまで子方にこだわった理由を、舞台を見ながら考えてみた。
ワイダニット(Why done it)
どうして《隅田川》には子方が必要だったのか。結論から言うと、わたしは元雅が非常に現実主義的な視点の持ち主だったからだと考えている。
「見えるはずのない幽霊がでているのに?」と突っ込まれそうだが、あえて言おう、「見えないものが見えている、だからこそ限りなくリアルだ」と!
救いようのないものを救ってみせる
《隅田川》と同じように、母親が人攫いにあった行方不明の子を探して彷徨うというあらすじを持つ能は、かなり沢山作られている。しかし、《隅田川》以外の曲は全て、子供と再会して共に故郷へ帰ることができる、つまりハッピーエンドである。
しかし時代を考えれば、仮に攫われた子を探しても、生きて無事に会えることはほとんど無かっただろう。そして、多くの人が会えないで終わったからこそ、舞台の上では会える必要がある。それこそがみんなが観たくなる、〝有り難い〟芸能としての魅力でもある。翻って、子供の塚の前で、この土を掘り返してでも姿を見せてくれと嘆く痛ましい母親の姿は、悲しいけれど、親子が再会できる作品よりも、限りなくリアルだといえる。
そしてさらにいえば、母親の目に映る亡霊を見所の観客が共に見てこそ、《隅田川》の結末は真にリアルなものとして成立する。
舞台の上のワキは、塚の中からの声を聞いたとは言うものの、霊を見たとは発言していない。その中で、仮に世阿弥の理論通り子方を出さずに謡と所作だけで表現してしまうと、この結末は恐ろしく重苦しいものになるだろう。見えない子方との邂逅は、シテの目にだけ映る、いわば閉じられた幻だ。仮に子方の「南無阿弥陀」の声が演出上聞こえたとして、母親の幻視は、見所には共有されず、それが物狂の悲しい末路に見えたのではないだろうか。
そこに子方を出すと、どうなるか。姿は亡霊、全く煌びやかではないのだが、手を伸ばす母親の切望と、亡霊が確かに現れ、手をすり抜けてゆく虚しさに、誰もが息を呑む。人々は、訪れた幻の邂逅をシテと共有するのである。
子方を出すことで、子供の姿を一眼見たいという母親の願いは、舞台の上に結実した。見所は、子方の登場によって幻の目撃者となり得、それにより幽霊の存在は、舞台上では現実ーリアルなものになり得たのだ。
元雅は、シテの目に映るものを共有させることで、この悲しみをたしかに昇華させてみせた。それこそが、《隅田川》が親子物狂の中では重たく異質でありながら、現代にまで演じられ続けている理由の一つであるように思う。
救いようのない結末を、観客もろとも幻視させることで救ってみせる。これは世阿弥が得意とした夢幻能と、筋こそ違えど、非常に似たつくりであるようにも思われる。
「かようのことは、して見てよきにつくべし。せずば善悪定めがたし。」
『猿楽談義』の結びはこのように述べている。つまり、やってみての観客の反応で、演出の是非を決めようと言ったのだ。結果、子方を出す演出が今日まで続いているので、軍配は元雅にあがったのではないかと勝手に思っている。彼の着眼点と洞察力は、相当にすごかったのだろうと思わせられる。
元雅の能は面白い。長生きしていたら、現行曲の種類はもちろん、演じ方や曲の種類もまた違っていただろうと思う。他の曲についても、また観て、色々考えるタイミングがあればと思う。
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