それでも2011年当時、自分が知り、忘れまいと書きつけたことをここに記そうと思う。
それが震災だけでなく、たとえば今のような、あらゆる局面でも忘れてはいけないことを内包していると信じて。
まごころを殺さない努力
うまくいかないなって思うことは、前からあるんだけど、回を重ねていろんな子たちと東北に行くようになってきて、むずかしさが増してきた。
はじめのころは「どうにかしたい」という思いがどれだけ強くても、目の前の現状が滅茶苦茶すぎてこの瓦礫撤去作業に終わりなんて来ないんじゃないかと思ったり、岩の隙間から土の下から、見つけ出すもの一つ一つに心が圧倒されていた。けれど、いつの間にか作業場は海岸や宅地から平地になり、初めて訪れる子たちが想像している作業と、実際に行う作業の差が大きくなってきたと思う。
テレビや新聞が報じた凄まじい現実を頭にここへやってきて、不完全燃焼を起こす層が出てきたのだ。
今回一緒に行った院生で、東北のこれからを多分すごく真剣に考えてくれていて、私たちにもっとこういう活動が必要だって言ってくれて、初対面の子たちに対してもリーダーシップとってくれた人が、夜、宿泊施設でのルールを守れなかったことで現地の方とトラブルになった。
私たちがこの山間部の廃校に宿泊させてもらったのは3回目で、管理の方が居て21時消灯厳守のところだった。いつもは体育館で雑魚寝だったのが、今回教室があてがわれたのもあって、その人たちが抜け出していることに気づけなかった。
寝てたら急に部屋がノックされて、電気つけられてびっくりした。
寝袋から丸出しの顏に電気がばっちり当たってまぶしくて目を細めてドアを見たら、管理人の人が「校庭でしゃべっている人がいました」と怒っていた。
ここは近隣に民家があるので、消灯時間を守るように言われているのは周りの人の生活への配慮だったけど、数人が眠れなくて抜け出し、校庭で話しをしていたらしい。
聞くと、「やっぱりもっとこうした方がいとか、こんなことしたいとかの想いが溢れて、話し合わずにはいられなかった」とのこと。
以前は瓦礫撤去作業が終わって眠るころには本当に泥のように眠るレベルだったけど、今は違う。
人によっては、作業が終わっても余力があって「まだやれる」って思いが溢れてしまうんだ。それで夜通し語りたくなってしまったんだ。作業後のミーティングで想いを吐露する場所を作っていたつもりだったけど、それでは足りなかった。
ルールをまげて行うべきことではなかったけれど、すべて紛うことなき”まごころ”が発端で。
わかるからこそ、今回のことがたまらなく虚しい。
山間部の人たちも身を切る思いをしてここに住んでいて、それでも廃校がボランティアの人の宿泊所になることを容認してくれていると、説明しないといけなかったんだな。
書いてある通りに読むことは難しい、それと同じように目の前にある状況証拠から想像を働かせることは難しい。直前の作業で市街地の空っぽさに打ちのめされた心には、山間部の、茂った森林やその中に立ち並ぶ民家や廃校は全く「被災していない」場所に見えてしまったんだろう。
そうではないと伝えてあげればよかった。
こんなに一生懸命の”まごころ”が、一生懸命であるがゆえに人を失望させてゆくところを見たくなかったし、見ないで済む努力をしないといけなかったんだ。
なにもない更地が、本当は更地ではなく、家財道具や資材や生き物や草木を押し込めて作られた平地であり、私たちが一日作業すれば何トンもの廃棄物を、まるで無から有が生まれるがごとく吐き出すことを。そして、この山間部に住む人たちが、あの日何を見て、どんなに身を切られる思いをしたか、そして何を甘受して私たちが訪れることを赦してくれているかを、しんどくても言葉にして伝えよう。
想像力を補うために、言葉があるんだから。
目の前の景色に説明を任せていてはいけない時が来た。それは関わろうとする人間の責任だ。
相手の持ち合わせているものが”まごころ”なら、それを殺さない、殺させない努力をする時が来た。
終わらないものについて
仮設の蛇口で道具を洗っていたら、顔見知りの中学生の子が近くにふらっと来て、「将来何になるの?」と聞いてきた。ちょっと悪戯っぽく「安定の公務員?」と言われた。どこでおぼえたん?と思ったけど、「激動の会社員」と答えておいた。ふへへ、と笑ってその子は走っていった。
ああでも、良かったなあ、将来を考えるって、とてつもなく前進だ。
もうここの道路一本下には何にもないし、みんなたくさんなくしたけど、それでも子供が将来を話すのは希望だ。
昨日、震災前に田んぼの側溝だったところの泥だしをした。
泥は一年半以上だれにも触れられていなかったし、日用品と、それからホタテやカキ殻を沢山内包していて、あらためて、異質な泥だった。
結構暑くて、しんどくなる人も出るきつめの作業だったけど、
日用品を泥からより分けていると、 隣にいた男の子が、少し震えた声で「これ、骨じゃないですか」と言った。彼の手の中におさまるそれは、背骨か首の骨に見えた。
結局私たちは一日で三個の骨を見つけた。
素人目には人間か動物かも定かではなく、警察が来て、現場写真をとっていった。
回収したものは、人骨であれば、鑑定にかけるのだそうだ。
それが誰かの遺骨であるか、動物の骨だったかは、わたしたちには判らなかった。
でも、私が見たそれは、本当にたった一関節だけだった。
津波はここまで、ここまで何もかもをばらばらにしてしまうのか。
あの骨がもし人のものならば、大事な人達の元へ帰ることが叶いますように。
どうか、迎えてくれる人が、待っていてくれていますように。
いつかのボラセンのお兄さんの言葉は、私にとっては、この時のためにあった。
おかえりなさい。ちゃんと(心の中でだけ)言えた。
作業完了の時間がきて、汗を拭いて、泥にまみれて、立ちあがって見渡すと、
完全に埋まっていた側溝に水が巡ってきていた。
限りなくゼロに近いけど、それでもゼロじゃないって信じてやってこれてよかった。
これは絶対に自己満足だけど、ないよりはマシなことを確かに出来た。
きっと昔の人もそう思うことで乗り越えてきたんだろうなと思う。
絶対になかったことにはならないし元通りにもならないけど、
何もかもが終わってしまったわけでもないんだ。
だから、あの子私に将来を聞いてくれたのだ。
三回に分けて過去の記録ををテキストに起こしてきたけれど、あの時の感情がよみがえってきて、虚しくも切なくもなりながら、懐かしい人たちが今、幸せいてくれることを願ってやまない。
悲しい出来事に人は口をつぐむけれど、同時に言葉にできない分書き残してもきた。
すぐに忘れる私たちに何ができるか、大学生の時の私できたのは、僅かだったけど、1ですらないけれどそれでもゼロではなかったと信じたい。
だから今起きていることに心を乱したとしても、人に嘆きをぶつけるよりは苦しみながらでも醸成していつかのために記録していくことしかないのだと思う。
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