現役の高校生の企画で、Twitterで知った表題のシンポジウムにオンライン聴講で参加しました。
結論、めっちゃ面白かったです!
先生方の話もすごく面白かったので、またちゃんとまとめたいのですが、やばいくらい長くなるので学生さんの肯定派、否定派の内容を聞き書きのレベルで下記にまとめます。(誤解あればご指摘のほど)
肯定派の論旨 その1
高校での古典の授業には意義があると主張する論拠は4つある。
1.古典を読むことは現代日本語の能力向上に役立つ
EX)現代語「せざるを得ない」という表現をすぐに理解するためには古典の知識が有用
2.古典を学ぶ過程で論理的思考がつく
古典を学ぶことで文脈、時代背景など様々な要素を考慮して読むことができるようになる
ここまでの議題に上がっていた、根拠に基づいて論理的に読む能力は古典でも身に付く
3.古典で学んだことはどういうときに役立つか
文語文に自らの力でアクセスできるようになる
古典を現代文で読み流しているだけでは、実は正しく理解できていない場合もある
古典で考慮している場合はそれに慣れる
4.古典から学ぶべきことはある
「孫子」や「徒然草」はビジネス書などにも取り上げられる
最近ではコロナ禍の外出自粛を乗り越えるヒントとしてアマビエの存在が話題となったりしている
これも原典を読まないとわかりえなかったこと
また、国際社会で自国の文化を知ることが必要。古典とは他国でもこよなく愛されるもの
私たちが他国の文化を知りたいと思うように、海外にも、日本の古典を知ろうとする人はいる
世界的に認められている文化的価値であるのに、自国の文化すら知らないのかと思われてしまう
否定派の論旨 その1
高校での古典の授業が不要と考える理由は下記の通り。
1.現代とのつながり が薄い
今ここで生きていく上で必要なのは現代の言語である
「言語」としての古典の必要性はほとんどない
言語としての必要性がないとすれば、他の必要性として昔の「文学」を学ぶという点が挙げられる
しかし、それは原文でよまなくても、現代語訳で十分である
EX)ノーベル文学賞は、様々な言語で書かれた作品もすべて英訳で審査されている
それはつまり、わざわざ原文で読まなくても伝わるということ、原文で学ぶ必要は全くない
2.社会的役割としての古典が危険性をもたらす
たしかに古典の思想や戦略が実生活の役立つかもしれないが、
逆に社会に危険性をもたらす可能性もある
それは「思想のかたより」を植え付ける可能性
例えば『伊勢物語』の「えびす心を持つ女」などは明らかに差別的な表現を含む
古典にはそういった差別を助長する側面があるので現代にそぐわない
3.ナショナリズムの助長
本居宣長の「しき嶋のやまとごゝろを人とはゞ朝日にゝほふ山ざくら花」の和歌は
戦時下において協力的な国民をつくるために使われた
古典は権力によって、教育や流行に取り入れられるものであり、ナショナリズムを助長する
以上より、言語的、文化的側面において学ぶ意義がない
肯定派 要旨 その2
1.古典を学ぶことで、文語文に自らアクセスできる力が身に着く
文語文はほんの70年前まで使われていた
そのころのことを知ろうとすれば文語文にぶつかる
現代語訳しかよめないということは、訳者の思う意図でしかみれない
原文にみずからアクセスできることは必要な能力
2.古典は現代にそぐわないという主張への反論:差別的な価値観も相対化のために学ぶべきである
差別的な内容があったということも隠さずに教えるべき
排除ではなく事実に向き合うべき
なぜそうした価値観があったのか知ることを通して、今はどうして別の価値観なのかを相対化する
ただし、教員がなにもリードしなければ、教科書として確かに権威化されるだろう
例えば、様々な時代の古典作品の恋愛の場面をピックアップして
現在の価値観を相対化するなどの試みはどうか?
3.古典はアイデンティティである
学ぶことによって日本語や日本の文化、日本語という言語を知ることができる
EX)『方丈記』は災害が起こるたび、繰り返し読まれてきた
800年も前に生きていた人に共感できるということ
古典を題材にした作品の多さがその意義を物語る EX)芥川龍之介や三島由紀夫の古典題材作品
古典はナショナリズムに利用されるという視点についても、
利用されたときに気づくためにも学ぶべきだと思う
宣長の歌が利用されたことも学ぼう、”絶対視”しないことがナショナリズムへの対抗手段になる
否定派 要旨 その2
1.学習対象として古典は非効率である
肯定派の古典語を知ることは現代日本語の能力向上にはなるという論について、
そうだとしても、圧倒的に効率はわるいと考える
現代語の能力を向上させるためにわざわざ古典から学ぶ?それならダイレクトに文法を学ぶ
EX)少しづつ 少しずつ 古語をしることで書き間違えるリスクが出てくる
どの古典文法が現代に通じるか通じないかを判断するプロセスで、間違うリスクがある
2.古典で論理的思考を学べるという肯定派への反論:古典の論理のプロセスは常に型通りである
現代語訳という結果を導き出す過程でしかないため、
思考力を鍛えるものではなく、作れる問題が少ない
数学の数式のように(古典文法は)多様ではなく、応用性・発展性に乏しい
3.先人の知恵よりも実社会で役立つ知識が必要である
コミュニケ―ションやコラボレーションのスキルのような
社会に出て役に立つ、実用的な知識が今の高校生には必要
また、古典に表現されている心はストーリーや物語に入っているため、
わざわざ原文を読む必要はない さらに、すでに古典とされている作品から除外されているものもある
普段使っている教科書を見てみるとページの6割は平安、2割鎌倉、残りはその他
アイヌや琉球の作品がない。教育の段階で自国の範囲が規定されている
肯定派 最後の主張
古典の授業には意義がある
読むことは現代日本語の能力向上に役立つし、根拠に基づいて読むこともできるようになる
文語文に自らアクセスできるようになることは大切で、
古典から学ぶべきことがある 現代と違う価値観を知る 現代を相対化することで視野が広がる
グローバル化の中を生きる上で自国の文化を知ることは大切であり、過ちに気づいてナショナリズムに対抗することもできる
否定派 最後の主張
古典を学ぶことが一体何の役に立つのか? 古典文学の内容を楽しむには現代語で十分
役に立たない古典を高校生が学ぶことに意義があるか?
古典において得られるものは全て現代語でも習える
ナショナリズムの高揚や危険な思想を植え付ける古典よりも もっと他に学ぶべきものがある
所感
★自己の立場
私は大学で日本文学を専攻し、その後WEB制作会社で働いています。
(古典や教育に関連する仕事に就いてない参加者は他にいたのかな?気になります)
今回の議論における立場を明示しますと、当初から古典は必要派で、ディベートを通じてもその考えは変わらずです。ただ、このままの古典教育でよいとも思いません。
★肯定する理由
文語文に自らアクセスできるリテラシー(文語文を自分で読む能力)を身に付けるべきと考えるためです。少なくともそこに書かれているものが「文語文」であると認識、理解するレベルの知識が必要です。
例えば東日本大震災では、明治と昭和の三陸大津波後に建てられた石碑の「ここより下に家を建てるな」という内容が読めなくて、その下の土地に家を建ててお亡くなりになった方が少なからずいます。
そのような危険性のある場所に集落を作り、家を建てたのは、誰でしょうか?
私たちと同じ、普通の人たちです。何の落ち度も罪もない、一生懸命生きていた人たちです。
先人たちは、過去の失敗がどうか伝わるようにと一生懸命「書き残して」います。
失敗に学ぶためにも、古典を読解する力を、軽んじてはいけないと思います。
もちろん、高校の授業ですべて読み解けるほどのスキルが身に付くとは思っていません。それでも、「ここに何か書いてあるけど、読めないし自分には関係ない」という断絶的な思考を持たせないために、古典を学ぶことは必要です。
(こうした、全く知らない・ないものとして扱うことによるリスクについて、今回は議論になりませんでしたが、災害時を引き合いに出されるのであれば、これも肯定派の議論の補強材料とはならないでしょうか。)
★否定派への擁護
肯定派には投票しましたが、否定派の方の指摘には賛成したい部分もたくさんあります。
特に軍国主義への利用は私もずっと気になっていました。
ただ、そうしたナショナリズムへの利用を危ぶめばこそ、古典は「権威づけ」に利用されやすいので、原典を確かめて自分で解釈する必要があるという結論にたどり着きます。
「古典を読む力がなければ、昔のことを正確に知ることが難しい」ということは、言い換えれば「古典を読めない人を、古典の権威を使って騙すのは簡単」ということなのです。
また、「権威づけ」に弱いことは、ナショナリズムを語る以前の私たちの課題です。
たとえば本日も何度も引き合いに出された「ノーベル賞」ですが、それは誰もが知っている「権威ある賞」であり、知っているからこそ、多くの人が、例えば受賞した研究内容を理解できなくても無条件に「すごい」と認識する。それも仕組みとしては同じではないでしょうか。
★実用的なスキルについて
また、「実用的なスキル」というものは求められて然るべきですし、今の社会情勢を見ている学生が
生きていくためにそれらの学びの充実を学校に求めるのは自然なことです。
それを「心が豊かになるから」という理由で古典が必要だ、などという説得では、決して圧しとどめることはできないでしょう。
ただし、短期的な目線だけで学習内容を偏重させることはいけないと思います。10年前と今で「実用的なスキル」の内容が進化しているように、今「実用的」なスキルがずっとそうだと断定することはできません。また、社会や企業の発展に欠かすことのできない”イノベーション”は、ご存じの通り、”既に在るもの”の組み合わせで起こすものとして定義されています。その”既にあるもの”の中に、どうか、古典も加えていただけないでしょうか。
★終わりに
最後になりますが、私はゆとり教育で育ちました。それなりに楽しく有意義な学生生活でしたが、
「円周率3なんでしょ」「ゆとり教育をうけたことについてどう思いますか?」などなど
大学生~新社会人の頃に出会う大人たちは、よく嗤いました。
内容を決めた当事者たちでなく、教育された私たちが弊害を受けたことを忘れはしません。
社会人としてそれなりのキャリアを築けた今だからこそ、教育において、受け身ではだめだと
名乗りを上げた学生たちの心意気に喝采をおくりたいです。そして、これを学生に発起させてしまった自分たち大人の情けなさを、思い知るよりほかないと感じています。
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