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執筆者の写真cocon

簡単に忘れる私たちに何ができるか(1)

更新日:2021年5月16日

政府は先日、東日本大震災の追悼式を、10年の節目を最後に取りやめると表明した。私たち人間は”節目の10年”と聞くと途端に一昔前のように、そして何もかもが完結したように勘違いをしてしまう。

政府が表明したとして、私たちまでもがそれを区切りにまるで過去のようにふるまうべきではないだろう。かといって、声高に叫ぶことも、悼んで石碑を立てることも、永劫生きて人に伝えることも、当然ながら私にはできない。


そこで今回、当時大学3年だった自分が書きとめた震災に関する文章を、ここに記そうと思う。節のタイトル以外はすべて、当時21歳の学生だった私が書いたものである。この上なく稚拙で恥ずかしい内容だが、少しでも当時の、いや今にも繋がっている、「被災地」の外側にいる人間ーすなわち当事者でない人による記録なので、こうして10年を節目にする世の中の雰囲気に対し、なにかのよすがになることもあるだろう。このままブログに載せることをどうかご寛恕いただきたい。

 
あの日、遠く離れた町で

あの日はアルバイトまで家にいようと思っていて、テレビある実家のリビングでケータイでもいじっていたと思う。

トイレにいる間に少し揺れを感じたが、どうせ家の裏を走る幹線道路にトラックが通っただけだろうと思いながら部屋に戻る。けたたましい音でテレビが地震を報じていた。 14時46分、地震発生。

さっきのあれは地震だったのか。驚きながら私は、現地の映像をテレビ越しに見ていた。


津波が来るらしいことはすぐにニュースで報じられたが、テレビが映す多くの人が引き浪の起きはじめた海岸に立って海を眺めていた。アナウンサーはニュースを見ている人に対してではなく、映像の中の人たちに向かっているような口ぶりで、何度も何度も繰り返した。


「逃げて下さい。逃げてください。津波が来ます、今すぐ海岸から離れてください」


時間の経過とともに津波がやってきた。

何もかもが津波に呑まれ、舐めとられていくのを、私はただ茫然と見ていた。

大変なことになったと思ったけど、バイトの時間になったのでバイトへ向かう。


そこからの1週間は、学校よりもバイト先での時間ばかり記憶に残っている。


バイトしていたドラッグストアに、水や食糧を買い占める客が殺到したのだ。

東北は遠い地だと思っていたが、買いに来る人の中には、東京の友人に送りたいと言う人もいたし、社令で買い占めて、あちらへ送らねばならないという人もいた。でも、本当に、ただ不安だからと備蓄し始める人が、もっとたくさんいた。


そうなってくると当然品薄になるわけで、水やカイロの数量を制限し、札を貼り、お客さんに何度も説明した。そのたびに、言い知れぬ焦燥のもとにある人々は口々に、どうして数を制限するのか、何ならば売れるのか、どうして自分達に売らないのか。お会計ををわければいいか、家族じゃない人間を連れてくればいいか、とバイトである私にさえ詰め寄った。スタッフみんな連日へとへとになっていた。


現地では海水で濡れたまま、体育館で過ごした小さい子供たちや、命からがら逃げて、体調を崩した人、プールの水を飲む人がいるなどの辛い状況が毎日報じられていたのに、私たち遠くの人間は自分たちのことばかりだった。原発事故も起きて、日本中の誰もが不安なのはしかたなくて、安心したいのも痛いほどわかって、それでこんなにも簡単に、大人でも自分以外のことは何にも見えなくなるんだということ、それが何より恐ろしかった。


恥と決意

2か月くらい経ったとき、最寄り駅に寄付を募る人たちが現れた。

その日はなんで駅を歩いていたか思い出せないが、自分と同じくらいの人が4人くらいたって声をだしていたので、なんとなく堪らなくなって募金した。


そうしたら、自分より少し年上に見える女性二人組が後ろから 「あんなとこに立ってる奴らに募金しても届くわけないじゃん。頭悪い」というようなことを聞こえよがしに行って通って行った。


めちゃくちゃ恥ずかしかった。相手の発言はどうかと思うが、たしかに一理ある。

募金箱の人たちが本物かどうか疑うこともしないほど無知な自分をたしなめられたと思った。

同時に大事なものを知らない人任せにするには若すぎるって怒られた気がした。


じゃあどうしたらいいんだろう、と思っていたら大学から学生ボランティア派遣が出ているとわかって申し込み、11か月目のあたまに初めて現地に入ることになった。


11か月経って、正直に言って震災のことはちょっと身の回りから遠くなっていた。

引き続きテレビ越しに情報を見ながら、みんなふつうの生活に戻っていて、あれほど買い占めた食料品はおそらく多くの家庭の戸棚に眠っている。テレビが報じる内容も、少しずつ良いニュースになってきていた気がする。みんな良いニュースが聞きたかったのだ。

そしてそんな情報に慣らされた都合のいい、私のぬるい偽善心は、現地でめちゃくちゃに裏切られることになる。


現実を知る

現地に行ったのは、2月の土日2日間だった。生まれて初めての東北、日本海側は2月でも雪がすくなく朝降った程度で、ずっと晴れていることに驚いた。

ボランティアの工程は、学生30名ほどが夜行バスで岩手県陸前高田市へ向かい、早朝から現地のボランティアセンターにて割り振られた作業を行う。その後、団体宿泊を受け入れてくれる宿に1泊、翌日は仮設住宅で避難している方に足湯を行うという内容だった。


ボランティアセンターで当日言い渡された作業内容は、気仙沼大橋の下の瓦礫撤去だった。

知らない人はいない、あの「奇跡の一本松」の真正面、港と川の間だ。


センターへ向かう道中、テレビで見た通りの、何もなくなった土地がただただ広がっていた。津波をせき止めたであろう小さな里山(峠?)は、7合目あたりまで木が茶色く立ち枯れしていた。海水のせいだ。自分以外の学生たちも、窓の外を見ながら、画面と同じ、でもそれ以上の力を以て目の前に迫る現実に、出発時とは打って変わって口数も少なくなっていた。


現地へ移動する前に、センターの人がバスに乗り込んで説明をしてくれた。

20代後半くらいの眼鏡をかけた男性だった。少し怒ったような口ぶりに感じたのは、疲れていたからか、私たちの甘さを見透かしてのことか、今となっては分からない。


その人は最初に、「作業の最中に遺体が見つかる可能性があります。」と言った。

前日はセンターの管轄した作業の中で、四体見つかったので、今日も十分に可能性がある、と。

そして見つかるとしたら、関節が外れたり、体の一部だったり、とにかく普通の状態ではないことを覚悟してほしい、と言われた。


瓦礫撤去をする上では本当に当然の話だと今なら思うが、当時の私は衝撃を受けた。

一年近く経ち、捜索終了のニュースをたくさん見聞きしていた私は、海に飲まれた御遺体以外はもう探しつくされたように思っていた。私だけでなく、学生の多くが、いや下手をすると日本中の多くの人がそう思っていただろう。でもそれは、現状探せる限りのところを人数をかけて捜索することを終了しただけであって、瓦礫撤去の進まない場所や泥の中に埋まる遺体は、むしろ手付かずの状態だった。


恥ずかしさで涙が出そうになるが、あんなに地震直後から気にして、申し訳なく思って、何かしたいと意気込んでやってきたくせに、私は現実をひとつも分かっていなかったのだ。


色をなくした私たちに、センタ―の人は静かに「見つけるのは悪いことではありません。」と言った。

「まだ帰りを待っている人がいるから、見つけたらお帰りなさいという気持ちで迎えてあげてほしい。もう行方不明者がどんどん少なくなっているように報道されてますけど、あれは家族が捜索を諦めたからなんです。本当はまだ見つかっていないけど、遺体のないままに死亡届を出された方がすごく沢山いるんです。」


このひとが怒ったように見えたのは、きっと言葉にできない思いをして、それでも私たちに伝えてくれているからだったんだろう、と後になって思った。

瓦礫の正体

結局一日中作業をして、私たちが担当したエリアで御遺体を見つけることはなかった。ただ、岩場に挟まった衣服を引っ張り出すとき、泥を掻き出して硬いものに触れたとき、幾度となく可能性が頭をよぎった。怖かったし、なにより御遺体なら、これ以上、バラバラにしたくなかった。


学校のそばだからか、瓦礫の中には教科書や、通知簿やネームプレートがあった。ガキの使いって手書きで書いてあるビデオテープもあった。全部普通の生活の証で、カメラも、フォークも、鏡も服も貯金箱も、全部いつか誰かのものだったと思うと、こうして”瓦礫”として捨てることが悲しくて仕方なかった。個人が特定できそうなものは除け、それ以外はトン袋と呼ばれる、普段は土砂などを入れて使う大きな袋に瓦礫を集めていく。驚くべきことに、テレビではあんなに何もかもなくなって見えた広々とした地面や海岸から、信じられない量の瓦礫が出てきた。津波はすべてを海へ持ち去ったわけではなく、打ちのめし圧しつけても行ったのだ。そして私たちが総じて瓦礫と呼ぶものの正体は、まったくバラバラになっているわけでもない、だれかの持ち物ばかりだった。


潜在意識の中で私は、人がバラバラになっているなんて少しも思わなかったくせに、瓦礫は何かも分からないほど砕かれていると思っていたらしい。おかしな話だ。


拾いながら、何も知らない他所の人間がこんなことをするのを、被災地の人が本当に望んでいるのか、わからなくなった。現地から請われて、自分も望んでここに来ているのに、正しさなんてどこにもなかった。超のつく偽善者。だってもし自分の大切な人のものだったら、私はきっと捨てることなんてできない。この写真もお守りも筆箱も、もう戻らないなら、欠片でもいいから残したいに決まっている。

それでいて、自分の手で拾い上げることも、見ることも、苦しくてたまらないに決まっている。

距離への恐怖

作業をしていた時、高校生くらいの女の子とその両親と思しき人たちが、作業をしている川岸付近へと車でやって来た。

彼等は少し離れたところに止まったので、どのような表情をしているかは見えなかったが、かわるがわる奇跡の一本松をバックに写真を撮っていた。

そして、私たちと、私たちが集めてうずたかく積み上がった瓦礫にもカメラを向けた。


おそらく撮るに値する一つの風景だったんだろう、被災地とボランティアという、その場所に似つかわしい組み合わせ。でも、怒ることも出来なかった。この日この場所にいる私も、所詮見に行った側に相違なく、どのような言葉を並べても、無遠慮な人間でしかないと骨の髄まで分かっていたから。


作業前、献花に向かった陸前高田の市街地は、瓦礫こそ確実に減っているものの、かろうじて残った建物は、まだあの日のままの状態だった。市役所の中には物が散乱して、車が二台入っていた。なぜか赤いランドセルが三つくらい落ちていて、壁に「捜索終了」の張り紙があった。その前には祭壇が有って、お線香や卒塔婆があって、手は合わせたけど、もうなんの言葉も浮かんでこなかった。その向かいには、ぺちゃんこの車が何個も何個も積み上げられて、それを行っただろう、先がはさみになった小さな油圧ショベルが置きっぱなしになっていた。車ってこんなに薄くなるんだ、と思った。

どんなに画素数のいいテレビをみても、新聞記事を読んでも、私たちはこんなにも無知で、真実から遠かったのだ。献花の時に、バスから降りられない子もいた。


その日のミーティングで、一緒に行った二年生の男の子が「遠くの人が震災を忘れて行くのが怖い」と言った。まだ11か月しか経っていないのに、と。 私たちを含め、東北に縁のない人達は、この距離と、時間の経過で震災があった現実から「遠く」なっていってしまう。どうやって抗ったらいいのだろう。学生で話し合うも、答えなど見つからない。でも今、既に「遠い」ことに恐怖を感じる。

 

改めて文章を読むと、北陸新幹線開通前だったので東北をすごく遠くに感じていたことや、買い占める人たちにいら立つ自分は、守る家族のいる人たちの心を少しも理解できていない子供だったと感じる。


それにしても、たった11か月ですでに「遠くなる」ことを恐れている自分がいて、現実に遠くなっている世間があったことに、読み返して愕然としている。


ここまででも長くなったので、続きはまた別の記事で載せていこうと思う。


2012年夏ごろの陸前高田広田湾

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