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執筆者の写真cocon

観能録〈水掛聟〉

更新日:7月17日

2020年1月11日 石川県立能楽堂 観能の夕べ第1回の観能記録です。


「水掛聟」

この狂言は初見。百姓の舅と聟が、それぞれ自分の田んぼに水を引き入れたいがために相手の田んぼの堰を切たり埋めたりする争いを面白おかしく描いたもの。


自然環境に左右される稲作において、日照りとなれば義理の親子でも水を巡って争う様が皮肉を込めて描かれているものかと思いきや、村戸先生の解説を聞くとイメージは一変。

田んぼの水を巡って争ううちに舅の顏に水がかかると、そこからはお互いに水をかけて相手を笑う、泥を塗りつけて相手を笑う、相撲をして相手を笑う…この演目は、早乙女や神事相撲など、農村における農耕儀礼にそっくりじゃなのだ。そのため現在は、豊作を願う行為としての農耕儀礼をもとに生まれた狂言なのではないかと言われているそうである。

うーん、この曲自体ノーマークだったことが惜しいほど面白い!


その視点を以て舞台を見ていると、たしかに水を巡って争ってはいるが、いくつか祝言性を感じられる点がある。


祝言性を含む点の考察

一つ目は、聟も舅も登場シーンでは周囲を見回すしぐさをして「今年は例年にない田んぼの出来だ」というようなことを述べている点。その直後に、最近雨が少ないので日照りが心配だから、田んぼに水が足りるようにしておかねば、という言葉はあるものの、彼らの眼に見えている田んぼはその時点では(日照りの危機に瀕してはいるが)素晴らしい成長を見せているはずだ。能狂言がかつては野外で演じられていた時代を想うと、豊作に対する予祝の要素を含む言葉にも感じられる。


2つ目は、仲裁に入るのが嫁であり娘である点。彼女の立ち回りが面白い。仲裁に入るために、取っ組み合いをする二人どちらかの足を取ろうとするのだが、そのたびに二人から「夫(親)を想うなら舅(聟)の足をとれ!」と言われ、交互に相手を止めに入る。最後には、夫と一緒に親を引き倒して終わるのだが、これもまた、家の繁栄という考えが根底に感じられる。すなわち親は大切だが、夫に従うことで夫唱婦随の体現となるわけである。これ以前の場面で聟と舅が「忙しくて最近互いの家のに顏も出せなかった、家内のものは皆息災か」というようなことを尋ねあう場面もある。この時点で、娘はすでに聟の家の者であると明示されている。もう少し気になった点はあるものの、挙げていくと長くなるのでこのあたりにしておく。


さて、夫婦に引き倒された舅は、彼らが仲良く去っていった舞台の上で「来年の祭りには呼ばないぞ」と怒りながら去っていくのだが、狂言の十八番である「やるまいぞ」(許さないぞ)の言葉はなく、いかにもハッピーエンドである。


余談だが、2人が泥を塗りあう場面を見ていると、最近よく耳にするようになった宮古島のパーントゥを思い出したがこれは農耕儀礼ではなく、厄払いのため神聖な井戸から取った泥を身にまとった来訪神(パーントゥ)が塗りたくりにくるというものだ。泥に神聖な力が宿るという考え方は共通していて面白い。

ただ、こちらの祭りでは近年、観光客から「泥をつけられた」とクレームが入る事態も発生しているとのこと。なんだかおおらかさの敗北という気がしてさみしい。



   「水掛聟」(文化デジタルライブラリー所収「狂言絵巻」より)






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