北条裕子氏の「美しい顔」読んだ上でずっと悶々としてる。前提として、作家としてのミスは重い。参考文献に挙げたとしても、この表現の近さは批判を免れない。その上で、「被災地に行った事がない」事についての批判に及ぶのを見ているととてもモヤモヤする。
「被災地に行った事がない」状態でなにかを描くこと自体は悪ではない。だって現代において戦争を描いた作品の中で実体験を元にした人は現代では居ないわけだから、過去を描く時にはある程度の取材と想像に頼るしかない。
この前提の上で、2つの問いが自分の中にある。1つは、では東日本大震災は既に「過去」なのかということ。2つ目は、仮に私が「過去ではない」と定義したとして、それは一体日本のどれだけの人にとってなのだろうということ。
震災から7年という月日は、果たして過去なのだろうか?北条氏はおそらく、7年かけて自分が目を背けた現実を咀嚼し、想像してこれを描いた。そのプロセスは批判したくない。が、過去にしなければ、当事者以外に一人称で筆をとる決意は生まれないと感じる。
過去とするには近すぎる出来事だと思うと、やはり作品には北条氏自身が体験した震災と別の何かも多分に含まれているとしか思えない。その行為は創作においては全くおかしくはない、ただし人間の尊厳と言う意味では、あまりにも残酷だと思う。
ここで2つ目に挙げた「過去ではない」と定義した場合について考えてみる。それは当事者や当事者辺縁の方だけのものにはなっていないだろうか。そのほか一切の不幸全てで言えることだけど、なくなったものはおんなじ形では二度と戻ってこないと言う当たり前のことを、すぐに私たちは忘れてしまう。
その意味で、北条氏の描きたかった主眼はそこにあると感じていて、それは大事な指摘だと思う。ただしこんな普遍的な命題に挑むなら、やはり作品には配慮が必要だっただろう。これは読む人を選ぶ。本当にあの場所に居た人には苦しすぎるのではないかと思う。少し居た私ですら苦しい。
回りくどくなるが、状況を知っていることは批評するにあたって何らのイニシアチブにもならないと明言しておく。その上で、読む人を選ぶ作品であることはかなり重篤な問題だと思う。ノンフィクションが担うべき部分だと感じる。でも、そのぐらいの重さのあるら小説だからこれだけの熱量で問題視され得る。
見た人すら筆舌に尽くしがたいことを選んで向き合って消化して描いて、その上で目を見開いてテレビ画面を見つめて来た人たちに、目を閉じて想像した自分の方が肉薄してみせると言う荒業をやってみせようとした意気。「過去」として扱うことで「過去ではない」状態を作り出そうとしたのかな。
結果として表現の問題が大き過ぎて、果たしてその内容のどれほどが正当に批評されるのかわからないけど。。現代文学の畑ではないからこのくらいにしておく。ここまでのつぶやきは全て自分の思考を整理するための自己満であり、誰に対しての悪意も含みません。ご容赦のほど。
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